一日一楽

2024年春、セカンドライフが始まりました。

それぞれの役割に敬意を払うこと

子供が生まれたとき、会社勤めするという選択肢を自分の中から外した。世間一般の多くの人は忙しい時間をやりくりして、子育ても仕事もある程度のラインまでやれればOKと割り切るのだろうけど、自分の場合は性格上、子育ても仕事も中途半端だと感じることが大きなストレスになると思ったからだ。

また、時間に余裕がない状態というのが苦手で、子供を保育園に送り迎えするために仕事を途中で切り上げないといけないとか、時間がないから夕飯を手抜きするとかが続いたら、バタバタと雑にしか暮らせていない自分に落ち込むだろうということもわかっていたからだ。

 

外に働きに出ないと時間の使い方が自由になるから、子供たちが小さかった頃、飽きるまで公園で遊ぶのに付き合ってやれる状況だったし、子供たちが自転車または電車通学するような年齢の頃には、雨が降っていると車で送迎してやれる状況なのもよかったと思っている。

 

家庭の中で1人フリーな人間がいると、仕事なり学業なり本業を持っている人間のサポートができる。家事や市役所への用事など私が引き受ければ、他の家族は本業に専念できる。それも立派な役割である。

・・・と私は考えていたんだけど、高校生ぐらいのときだったか、上の子が「私は多分仕事を続ける。専業主婦にはならない」と言った。「なんかやりがいなさそうというかつまらなそうじゃん?」って。

なので私は答えた。「仕事したいと思うなら仕事すればいいと思うよ。ただし、あなたの子供は今のあなたみたいに、雨が降ってても車で送ってもらえずに雨の中通学することになるし、忘れ物を学校まで届けてもらうこともできないけどね」と。

家から自転車で10分の高校に通っていた上の子は、レインコートを着ないといけないレベルの雨の日だと車出してと言ってきたし、忘れ物をすると何時までに届けてほしいと簡単に連絡してきたりしていた。

上の子ははっとした表情になって黙ってしまった。

 

私は子供が生まれたときに、しばらくは家族のサポートに徹しようという選択をした。家族はだいぶ助かっただろうけど、自分のキャリアはふいにした。逆に、キャリアを捨てない選択をする人もいるだろう。その代わり、いろいろな家事や用事、不便な状況は家族みんなが少しずつ犠牲を払って回していくスタイルになるだろう。別にどちらが正しいとか間違っているとかじゃない。選んだようになる、というだけの話だ。

 

夫がリタイアした今、雨の日に子供たちを駅に車で送るのは夫が担ってくれている。さらに、雨の日や外気温が35度を超えているような日は、私がパートに行くときも夫が車で送ってくれる。

社会人の子供たちは、仕事で疲れて帰ってくると夕飯が用意されていて、お風呂は沸いていて、洗濯物は洗い上がっている。君らの生活は、スポットの当たらない役割を担ってくれている人の上に成り立っているのだよ。自分が仕事とか学業とか、やりたいこと、やらないといけないことに専念できているのであればそれはラッキーなことで、もしかしてそれ以外の部分を誰かが代わりにやってくれてるのかも?ということに思い至れる人間でいてほしいよね。